この個展のタイトルは「無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」。
ガルシア=マルケスの「エレンディラ」のもともとの題をもじったものだが、それは単なるモチーフにとどまらない。
ガルシア=マルケスの小説は“魔術的リアリズム”とも称されて、物語の中にしばしば突飛な現実離れしたエピソードが紛れ込む。
西欧の常識とは違い、だけど南米ではそれが「現実」だというその展開に、われわれは幻惑され眩暈を覚えたものだ。
そして、今回のやなぎの最新シリーズ「寓話」も同じようなマジックで満たされいた。
単なる戯れでガルシア=マルケスが引用されていたわけではない。
しかも「少女」というものをめぐって、日本で、いや世界でこのマジックを操れるのは、おそらくやなぎ以外にはいないだろう。
写真に写し出されているのは、「エレンディラ」の他は、「白雪姫」や「赤ずきん」などよく知られた童話の一場面だったりする。
だがそれを演じているのは、少女と、醜い老婆のマスクをした少女である。
やなぎは「My Groundmothers」のシリーズでも若い女性に特殊メイクを施し老婆を作り上げた。
しかし「寓話」で老婆を演じる少女は、もっと年齢が下のまさに「少女」であり、しかもマスクをした顔以外の手足は無垢な少女のままである。
「老婆」の中の少女性、「少女」の中の老婆性がひとつの身体に二重露光され、そこに演出されるシーンの生々しいグロテスクさの中から、非常に艶めかしいエロティシズムが立ちのぼる。
「少女」と「老婆」の二重露光ということに関しては、高野文子の1980年の短編マンガ「田辺のつる」(『絶対安全カミソリ』白泉社=所収)がとりわけよく知られている。
しかし高野が描いた「少女」はエロティシズムとは無縁なイノセンスを表象していたのに対し、やなぎは「老婆」に「少女」を覗かせることによって、とても挑発的なエロスを生み出させた。
そして逆の見方をすれば、「少女」に「老婆」を装わせることによって、「少女」を「かわいさ」の呪縛から解き放った。
やなぎの作品「マッチ売りの少女」では、老婆のマスクをした少女が、雪の中、路面に座って、邪悪な表情でマッチの炎を見つめている。
本当なら、かわいい少女が寒い雪の中マッチを売る——というけなげさが同情を誘うのだろうが、やなぎは「かわいい少女」の部分をばっさりと切り捨てる。
そして見る者は、その憎々しい顔が持つ、瑞々しく艶やかな手足に奇妙な誘惑を覚えざるを得ないだろう。
それはたぶん、死姦の誘惑にも似ている。
やなぎの初期の作品に「エレベータガール」のシリーズがあるが、そのパノラマに放置された数多の女性たちは、まるで魂の脱け殻だった。
今回の「寓話」のシリーズにおいても、少女に「老婆」のマスクをかぶせることによって、少女から魂を抜き去ろうとしたかのように見える。
その肢体は、まさに血の通っていない人形の手足ではないか?
上半身をテントで覆い、老婆のようにシワだらけの手または足を見せる少女が誘惑するものもおなじものだ。
無意識のうちに目を背けてしまう「老い」。
そこにこのようなエロスを見てしまうとは、驚きである。
やなぎの冷徹な視線はますます鋭いものになっている。
11/6まで、原美術館にて。[やなぎみわHP]
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