「HEART of GOLD—百年の孤独」パパ・タラフマラ
(これから観る人は読まないように)
パパタラの初見はそんなに早くなくて、たしか新宿のスペースゼロでの「パレード」の再演だったかと思う。
それは衝撃的だった!
意味のない声を発することはあっても、セリフはなし。演劇でもダンスでもないパフォーマンス。そして魅惑的なオブジェたち。
だけどそれでいて物語性を感じさせるし、太古から現在、そして未来への時間の流れを思わせ、非常にスケールの大きな宇宙に解き放たれたような気分にさせる。
それを凡百の言葉に頼らず、凡百の動きに囚われず、思いがけない動きをして思いがけない形に変容していくオブジェとともに描き出すのだ。まさにそれは、ある意味魔術。
そのパパタラが、ラテンアメリカ文学の最高峰、魔術的リアリズムの傑作、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」を舞台化するという。
しかも主宰の小池博史は、「百年の孤独」をやるためにパパタラを作ったとさえ明言している。
これを期待せずに見ろというのは、無理だというものだ。
しかしだが、どうしてしまったんだろう。
なんでここまで言葉に寄りかかる必要があったのか。
セリフが多いだけじゃない、ご丁寧に舞台の背後に次々と言葉が映し出されたりする。
フツーの演劇かフツーのミュージカルか、そんな感じで、パパタラ独特の間合い——目に見えないけれども舞台空間に満ちているエネルギーのようなもの——を感じられるシーンが少ない。
ストーリーの説明をするかのようなセリフ、特にミュージカル的なシーンは、どうなんだろう、つまらない面白いとかそういう問題ではなく、「パレード」の世界観があれば、そのようなものに頼らなくても、「百年の孤独」的な世界は十分に作り出せたのではないか、という思いがあって、その点で非常に残念だった。
「百年の孤独」も、長い時間のスパンの中に人間の人生を魔術的なガジェットとともに塗り込めた作品であり、その点で「パレード」的な手法は十分に有効だと思うのだが。
ちょっと筋を追いそれを観客に伝えようとすることを意識しすぎたか……?
それでも後半には、「ああ、これだよ」というシーンが、いくつかあった。
もちろんそれを求めることは、ひとつの表現の殻の中に閉じこもってしまうことかもしれないが、パパタラの集大成なら、それでもよかったのではないか、というふうにも思う。
ただ以上はあくまでも個人的な印象なので、舞台としておすすめでないとかいうことでは決してない。
当然、面白く観た人もいただろう。
だが、うーん、パパタラには、言葉のない世界=言葉以前の本質的な身体感覚の部分でがんばって欲しいんだけどなぁ、と、ちょっと思ったのです。
世田谷パブリックシアター、11日まで。
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