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2005.12.11

横須賀功光&写真新世紀@東京都写真美術館

一昨年他界した横須賀功光。「功光」と書いて「のりあき」と読むそうだが、「功=しるし」としての「光」と誤読すれば、写真家としてよくできた名前である。だが横須賀は、光の中に何を浮き彫りにしたかというと、「闇」だった、とは言えないか。
彼の写真において被写体は、闇や色彩が奏でる抽象的な形象に還元させられる。
本来の身体の特質は、時に闇に剥ぎ取られ時に闇に融解されて、他にはない眩暈を誘う美を奏でる。
最も印象的だったのは、やはり山口小夜子を撮ったものだろうか。
とりわけ山海塾とともに撮られたシリーズは、白塗りの山海塾の面々は、まるで小夜子を、闇というか、地中=地面に封じ込めようとするかのような無言のエネルギーで包み込み、そこに感じられる闇の深さに長い間見入ってしまう。

だが、会場の構成としてはどうなのだろう。
順路を示さず、林のように林立したパネルの数々は、面白い試みだが、なんか見る側の注意力を散漫にさせるような気がした。
床がミシミシいうのも気になったしなぁ。
黒を基調とした展示室の雰囲気自体は悪くはないのだが。

で、3階にあがれば、おなじみ「写真新世紀」。
2004年準グランプリの川村素代の作品は、幼い少女が死んだように横たわる写真が続き、昨今の社会状況からするとぞっとさせられる部分もあるのだが、作者の意図はもちろん全然違うところにある。
川村は、これらは“自分と家族の「間」を映像化したもの”だと言うが、死体のような少女によって、表面的な繕いが消えた一瞬がひとつの絵として、無気味な力でもって迫ってくる。その一瞬を一瞬で終わらせないインパクトがそこから放たれる。
一方、今年のグランプリの小澤亜希子は、30歳の3人の女性の日常を捕らえた、巧みな組み写真。
ひとつの時間の流れの中で、彼女たちはそれぞれの日常を過ごし、そしてしばしばふいにその日常と日常が重なり合う。
少々あざとさは感じるが、物語性のあるユニークな作品だ。
あと印象に残ったのは、細かい風景写真をホックニーばりに組み合わせて、「東京」「大阪」などの都市の俯瞰マップにしてしまった西野壮平とか。
都市のところどころ(建物等)が肥大化されており、都市の抽象化されたイメージを具体として甦らせているようで面白い。

写真とは、ある意味、現実のある部分を赤裸々にするために、現実の一瞬一瞬を切り取る作業である。
かつては「決定的瞬間」といって、たった一枚の写真で時代が代表されたこともあった。
しかし今回の優秀賞や佳作受賞者の多くは、何十点もの作品を束ねたシリーズものであり、何十点何百点じゃなくて、数枚の写真でアッと言わせるような写真はもう撮れないのかなぁ、と、会場を巡りながらちょっと思った。
形象としての写真の美学は、もうやり尽くされてしまったということなのだろうか。
まぁだから、横須賀功光も、抽象にも通じる形象の解体に向かったのだろうけど。
(その点、色彩で惹き付ける蜷川実花は非常に特異な成功者である)

横須賀功光の写真魔術「光と鬼」は18日(日)まで。写真新世紀は11日(日)まで。
東京恵比寿・東京都写真美術館。

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