岡本太郎+植田正治@東京都写真美術館
東京都写真美術館で岡本太郎と植田正治の写真展が同時開催されている。
岡本太郎の写真は最近再評価の声高く、ここ数年それをクローズアップした展覧会もいくつかあったような気がする。
植田正治は言わずと知れた日本写真界のパイオニアのひとり。
砂丘のシリーズが有名ですね。
で、このふたつを続けて見ると、ある意味写真表現のあり方が浮き彫りになってきて面白い。
岡本太郎の写真が評価されるのは、おおむね、ストレートに、実直に被写体と向き合おうとする視線だろう。
「岡本太郎の視線」という展覧会のタイトルが示しているように、
岡本太郎が何をどう見たか、が観る者の興味をひくのであって、非常に素直に、無垢に被写体と対峙している岡本の視線の強烈さに、観る者は心震わされるのである。
つまりそこには、「岡本の視線」はあるが「岡本の表現」はない。
その意味で岡本の写真は、彼の芸術表現の本流ではなく、余技であった、ということもできるのだが、いやたぶん、彼にとって写真は、現実と対峙する手段のひとつに過ぎないのであって、そのステージにおいて「表現」を極めていこうという意思はなかった。
それゆえに導き出される力強さというものを、岡本の視線は持っていたのだ。
一方、植田正治は「表現」を追究する。
植田は写真家であるから、たぶん、写真が現実を写さないことを知っている。
彼はそのトリックを用いて現実を異化し、非現実的な世界を作り上げて社会を表象しようとした。
砂丘という舞台は、非現実感のなかに何かをシンボライズするのに格好の舞台だった。
そこで展開されるのは現実にはありえない風景だが、それを演出し「表現」することが、植田の「写真」ではなかったか。
カラーの「静物」シリーズも、演出された「表現」に囚われていた植田の姿を垣間見させる。
植田の場合は写真家として、岡本と違い、まず「写真ありき」だった。
植田正治の作品は、個人的には正直言って、あまり好きではない。
意図的すぎるし、やはり砂丘シリーズとかは、いまの時代からすると古臭い。
対して岡本の写真がいまなお躍動感をたたえているのは皮肉というかなんというか。
岡本の持っていた視線はそれだけスゴかったということか。
岡本太郎は2/18まで、植田正治は2/5まで。
セットでチケットを買うと200円引きになるので、ぜひ見比べてみて下さい。
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