ストリップ、児嶋サコ
ストリップは斜陽である。劇場も激減しているという。
まぁそれもそのはずだろう……社会環境も価値観も大きく変わっている。
そのストリップを見たいと思ったのは、堀江ケニー氏が惚れ込んで、大阪などにもそのステージを追っかけ、ぜひ写真を撮ってみたいと思わせたストリッパーの舞台があると教えられたからだった。
そんなにすごいストリップなら見てみたいと思った。
コンテンポラリー・ダンスや舞踏などでも裸を見せることは珍しくはない。
同じダンスでもこれらとストリップが違うのは、もちろん性的な刺激を喚起することを一番の目的にしているかどうか、というところだろうが、ストリップも単に全裸で股を開けばいい、というものではない。
動きの美はどうあれ、身体そのものの美を見せるという点では、ストリップの方が勝っているだろう。
彫刻や絵画では身体美の追究はごくありふれたことなのに、コンテンポラリー・ダンスにおいてはそれが忌むべきことのように扱われているのは、なぜなんだろうとも思う。
で、すごいと言うんだから、ダンスがすごいのかと勝手に思っていた。
でも、違った。
大音量で響く椎名林檎。
そこに豪華絢爛な和装で彼女は登場する(!)
それだけでその内容・雰囲気を想像できてしまう人もいるかもしれないが、そう、そこから始まったのはいわゆるストリップダンスとは違う。
身体で見せると言うよりは、身体の表情で見せる。
ただ踊るのではなく、どちらかというと陰翳に富む物語性が演出される。
場末で叙情的、湿った感じはあるが泥臭くはない。
舞台の空気は、足に巻かれたロープで身体を半分吊って秘所を激しくまさぐるあたりで最高潮に濃密になるが、うーんその情景は、いやらしいとかそういうのを通り越している。
確かにこれは、ケニー氏の言う通り、ストリップを見るのとは違うレベルで引き込まれるよ。
あるHPを見れば、彼女は「異端」で「カルト的な人気」だとある。
ケニー氏によると、地方で踊るときは、他の子のようにちゃんとアイドル的な明るい舞台も見せたりするらしいのだが。
舞台の後にはポラロイド撮影の時間があって、観客は希望すれば、金を払って彼女らにポーズをとらせ、ポラで撮影することができる。
これもケニー氏から聞いたことだが、そのポラ代はすべて劇場に入ることになっていて、彼女らに回ってくるわけではないらしい。
つまり、ポラの希望者が多いダンサーが劇場にとっていいダンサーであって、極端な話、舞台の内容は問題ではないという。
逆に言えば、エロさえあれば、舞台内容は自由に設定できるということ。
そういう環境から前衛的な表現が出てくるという現象は、たとえばロマンポルノやエロマンガであったことだが、似たようなこともストリップに関して言えるのだろうか……だが、衣装や交通費なども自前だったりして、なかなかそんな呑気な状況でもないらしいが……。
堀江ケニー氏は、彼女、浜崎みうを撮った写真をまとめ、個展を開く。
3月5日(日)〜11日(土)、渋谷のギャラリーコンシールにて(上の写真はそのDM)。
「廃墟憂愁」に掲載した写真とは違い、私生活も交えたドキュメンタリー的なものになるという。
彼女の内面に流れるものがどう写し出されているか楽しみだ。
(なおこのギャラリーの入っているビルは、元はストリップ劇場だった——前の個展もこの場所だったので、今回のために選んだわけではないらしいが)
——
さて話は変わって、渋谷のアップリンク・ファクトリーでは、児嶋サコ展。
「Afternoon of Atelier -マリの部屋-」と題され、手塚眞の映画「ブラックキス」で使われた児嶋流の痛カワイイぬいぐるみなどを小部屋のような空間を作って配置したインスタレーション。
針刺さっていたり身体がもげていたり変なのが生えていたりと相変わらずの毒々しさだが、この部屋が気持ちよく思ってしまった私はいったい何者なんだろう(笑。
自己破壊の願望を自分に代わって実現してくれているからか……とかも思ったが、うーん本当かなぁ。
児島の作品は瞳がとりわけ強調されるが、それは何かを射るような目ではない。
つぶらで、純真そうで、恐がりで奥ゆかしく無防備に見えるその瞳は、やはりサディスティックな欲望を喚起する。
ということは、この部屋で満たされるのはむしろ、他者への破壊願望か……。
実はそうして裸にされるのは、観客の側である。
もうひとつの興味は、そうしたアンビヴァレンツなその児嶋の毒を、手塚の映画はどう生かしているのか、というところだね(映画は未見)。
展示は2/8まで。
映画は渋谷Q-AXなどで上映中。
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