宇治山哲平@東京都庭園美術館
はっきり言って、チラシの絵柄はサギである。
これだと、ただ丸や四角を並べただけの、コンピュータでちょちょちょいと描けちゃうような絵に思えてしまうではないか。
でも、現物を見れば驚く。
その表面の質感——同じ平面でも、ざらついた部分と滑らかな部分があり、しかも色と色との境界は、縁取るように盛り上がっている。その盛り上がりとざらついた表面がかすかな影を付け、その質感が非常にいいのだ。
こんなのはチラシの写真では全然わからん。
抽象画と言うが、足跡を辿ってみれば、その抽象にも具体的なイメージが託されていることがわかる。
60年代の作品は、色合いも暗く、まだ丸や四角に形象が純化されていない。
それが70年代、80年代になるにつれ、色は原色の鮮やかさに、形も幾何学的なものに整理されていく。
その過程を追えば、幾何学的な絵に託されたイメージも捉えやすい。
でも、幾何学的に整理されていくんだが、ところどころに微妙な中間色のグラデーションが残されるところも、ひとつのポイントだろう。
それに丸や四角も、個々の形は単純だが、それらは決して整然と並んでいるわけではない。
左右対称のように見えて、実は違っていたりする。
幾何学的なのに、なぜか人間味がある。体温があるのだ。
そう、あの、表面の感触——水晶を練り混んでいるというその表現の感触も、体温をかもし出す重要な役割を担っているにちがいない。
宇治山はアッシリアなどの古代美術の魅力に取り憑かれたのだという。
宇治山の絵は、全体を把握するには、数歩離れて立たないといけないような大きさで、だが離れてしまうと表面の質感がぼやけて、味気ないものになってしまう。
だからちょっとは遠目に見たとしても、最終的には近くに寄って見てみたくなるのだが、近寄ると、視界のすべてが宇治山の作品で占められ、全体を把握するどころの話ではなくなるのだ。
だから、近寄って見ているうちに、なんだか、その絵の世界に迷い込んでしまったかのような感覚になってしまう。
アッシリアの茫漠とした大地——ただし原色の——に佇んでいるかのような、そんな感覚……。
そうかこのざらつきは砂であり、滑らかな部分はオアシスなのか……??んんん?
4/9まで。東京都庭園美術館にて。
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